追悼 立浪 澄子 様
平成26年7月4日、立浪澄子様が、1年間のご闘病の末亡くなられました。ご結婚後ご主人の出身地、富山に移り住まれ、長年富山支部との関わりをとても大切にしてこられました。ここに、亡くなられるまでご勤務された、長野県短期大学学長上條宏之様、富山支部会員、同級生からよせられたお言葉を紹介いたします。
弔辞
立浪澄子先生、私は昨日あなたの遺影の前に立つことを覚悟し、お別れの言葉を準備しはじめたのですが、6月23日に長野県短期大学のキャンパスにみせてくださったあなたのお元気な姿があざやかによみがえり、本日の告別式が夢であって欲しいと願わずにおれませんでした。しかし、先程物言わぬあなたの遺影を目の当たりにして、60歳を過ぎたばかりの若さで、大勢の皆さんに惜しまれながらこの世を去られたことを、事実として受け入れざるを得ない立場にいることを自覚しはじめています。しかし、先生と長野県短期大学とのかかわりは、私の脳裏から消え去ることはないでしょう。
思えば、あなたは、いまの季節では、緑が豊かで、静寂なたたずまいであるキャンパスがとても似合う方でした。ときには学生と一緒に、ときにはもちっこ広場とあなたが名付けた幼子たちとの交流の場や、園長を務めていただいた付属幼稚園で、いつもほほえみを絶やさず、働いていたあなたの姿は、私にとって、頼もしく信頼できる幼児教育学科のシンボル的存在でした。そのまぎれもない証しは、昨年5月におおやけにされた著書「実践力を育てる学生主体の子育て支援を通して」に結実されています。
あなたは熊本県で生を受けられ熊本県立玉名高校を卒業されています。もの静かななかに一本筋の通った芯の強さ、火の国熊本によくみられるという女性の不屈な魂が感じられました。と同時に、不屈な魂をつつむふくよかな包容力、さらには国際的感覚をおもちでした。それは熊本を出てお茶の水女子大学家政学部児童学科で研究・教育の基盤を造られ、さらにカナダに留学された経緯などで体得されたものでしょう。あなたは、おさない子どもへやさしいまなざしをむける暖かさを、大人へもおよぼす力を持っていました。何よりもあなたの人間的魅力に満ちた人柄を、忘れることができません。お茶の水女子大学卒業後、あなたは東京と富山の小学校の先生を経て、富山女子短期大学に勤められました。しかし富山に根を張るだけの人生を選びませんでした。カナダ・オンタリオ州立ローレンシア大学に特別学生あるいは客員研究員として二度海外留学されています。
長野県短期大学には、平成9年の4月に赴任いただき今日まであしかけ18年お勤めいただきました。いま最大の課題となっている新県立大学への移行は、通常の教育、研究以上に多くのエネルギーを必要としています。あなたは、新県立大学構想はいかにあるべきかを深く考え、絶えず提言を惜しみませんでした。また、大学が取り組んだ社会貢献事業を代表する現代的教育ニーズ支援プログラム「豊かな子ども観を育む総合的短期大学の取組」には、中核になって働いていただきました。
その一方、江戸時代の加賀藩や越中をフィールドとした子ども問題の歴史的考察を基盤にわが国草創期の保育者養成をめぐる総合的研究を科研費を得て、継続してすすめてこられました。
ベルリン生まれのドイツ人女性で、日本人男性と結婚し、日本における近代幼児教育の基盤整備に取り組んだ松野クララの研究を、ドイツに赴いて子孫にインタビューするなどしておこない、クララの顕彰碑も建立されました。さらにクララの教え子たちの歩み、近代初期の保母たちの歩みを明らかにする研究を続け、国際的学会で発表されましたが、忙しくて研究はできないなどというセリフをあなたから聞くことは一度としてありませんでした。
そうしたご無理が、昨年7月31日に入院され、今年5月16日の退院まで闘病生活をするところまであなたを追い込んでしまったのではないか、
いま、反省の思いがしきりです。
しかし、6月23日に長野に現れたあなたは、厳しい闘病生活を克服されこれからの日々をゆったりと楽しみながら、ライフワークを集大成する生活方針をきめられ、明るく元気にふるまっておいででした。それはさわやかで、希望に満ちたものであったように思われました。私は、あのときの姿を忘れることなく、新県立大学を発足させるために、可能な限り力を尽くしてまいりたい。そう約束させていただくことが、いま私にできるせめてもの償いだと思っています。先生が切り拓かれた望ましい保育者養成のための道筋は、今日、あなたを慕って参列し弔辞をささげる教え子お二人をはじめ、次の世代に確実に引き継がれていきます。どうか、ゆっくりとお休みください。
名残は尽きませんが、最後に長野県短期大学への長年の、今にして思えば命を削るようなご尽力に心深く感謝し、心からありがとうございましたと申し上げ、私の学長としての弔辞とさせていただきます。やすらかにお眠りください。 合掌
2014年7月8日 長野県短期大学学長 上條 宏之
立浪さんを想う
2011年の夏ごろ、富山支部ホームページを担当していましたので、松野クララ顕彰碑募金について、立浪さんから支部会員へのお知らせのお願いがあり、初めてお話をさせていただきました。そののち、中西元会長を囲む会にご参加いただき(ホームページ「23年夏の食事会」)、富山と長野を往復しながら長野短大教授、園長、研究、母、妻という一人何役も担っていらっしゃることが少しずつわかってきました。それでも、たいへんな毎日のことをおっしゃるでもなく、物腰はいつも謙虚でした。2013年の支部総会でお向かいに座ってお話したすぐ後に、「実践力を育てる」の出版を知りました。総会の、各自の近況の報告では著書について何も触れられなかった立浪さんの奥ゆかしさを思いながら、著書の紹介のため自薦文を書いていただきたく連絡して、入院中だと知ったのは夏の終わりだったと思います。秋にお見舞いに伺った際に、その著書をいただき、次回お会いしたら内容についてお話しして、と思っていましたのに、かないませんでした。
葬儀で教え子の方が読まれた弔辞から、どんなにか立浪さんが生徒たちから慕われていたかが伝わってきて、目元をハンカチで抑えました。生き方や尽くされた研究について、ついに立浪さんご自身からお話をうかがえませんでした。残念でなりません。ご冥福をお祈りします。
茂木 景
追悼文
立浪澄子さんとはお茶大・教育大合同の児童文化研究サークル「しいのみ」で知り合いました。アンちゃんと呼ばれ、地域の子どもたちに慕われ、サークルでは堂々とした強いリーダーでした。また私が悩んでいる時には話を聞いてくれ、一緒に泣いてくれた優しい人でした。4年生の時なかなか卒論が仕上がらない私を心配して、清書を手伝いに自宅まで来てくれたのもアンちゃんでした。彼女は富山女子短大や長野県短大で、幼児教育の実践者を育てる教育者となりましたが、一方で日本に幼児教育が伝えられた黎明期の歴史を研究していました。東京女子師範学校に日本初の保姆練習科を設立した関信三の足跡を調査しに横浜に来た時は、私も一緒に炎天下の野毛や桜木町を歩き回りました。日比谷の東京都立図書館の資料室で、保姆練習科一期生「原田りょう」の一次史料を発見したのも彼女でした。その妥協を許さない研究姿勢には、史学科出身の私も圧倒され、常に脱帽しました。
アンちゃんありがとう。アンちゃんには何度も助けられました。感謝は言い尽くせません。
小宮 まゆみ
すべてに全力を注がれた立浪さん
立浪さんとは支部総会での長い楽しいお付き合いでした。が、このたびお葬儀に参列し、また後日ご主人様から伺って知った立浪さんのお人柄や人生は、これまで何も知らなかったことが申し訳ないほど衝撃的でした。
大らかで温かく謙虚なかたである一方、ご自分の主義や生き方に反することには妥協しない芯の強さを秘めたかたであったこと。教師として、学生には限りない愛情を注ぐ反面、教えは大変厳しく、レポートや論文など通常の授業は「書かせる」ことを重視し、納得いくまで書き直しさせる・・・という両者にとって大変なエネルギーを要する指導だったようです。だからこそ、お葬式のあとも週末になると長野や全国から訪れる教え子さんたちが後を絶たなかったのでしょう。ご家族への愛情、教室でのご指導とともに、ご研究に勤しみ、膨大な書物の中で過ごされた日々はさぞ充実しお幸せだったことと、心からご冥福をお祈り申し上げます。
牧野 美知子
おわりに
追悼文を書くにあたり立浪様のご自宅を訪問しました。3年前に改築されたお部屋は、木の香あふれお二人のこれからの楽しい生活を実現するものでした。蕎麦が打てる部屋、澄子さまが大好きなぶどうの棚、その下のテラス。
私がお二人と出会ったのは、大学入学後すぐに入ったサークルです。当時茗荷谷駅近くに、東京教育大学があり合同のサークルでした。そこでお二人は出会い今日にいたっています。先輩のお二人は、包容力があり、心地よい安心感がありました。正義感の強い澄子さまのエピソードをご主人様からお聞きしました。
平成18年11月善光寺を訪れたときのことです。刃物を持った女が、女性に切りつけようとした時すぐにその女にとびかかり、警察官が到着するまで押さえ続けたそうです。その勇敢な行為に対し、長野県警察本部長から感謝状が贈られました。感謝状には「殺人未遂事件に際し身の危険を顧みず冷静かつ勇敢な行動により犯人を逮捕して警察活動に多大な協力をされました」とあります。
この冊子がお手元に届くころ、ご自宅のぶどうが実っていることと思います。
加藤 康子 記
立浪澄子様の主な著書・共著
「実践力を育てる‐(学生主体の子育て支援)を通して」立浪澄子著ななみ書房2013
「近世捨て子史考-加賀藩の事例を中心に-」福田光子編 『女と男の時空・第4巻近世編・爛熟する女と男』藤原書店1995 pp・420-454
「越中の棄児・養子・小児往生論関係文書‐浄土真宗の浸透と子育て意識-」太田素子編著 『近世日本マビキ慣行史料集成』刀水書房1997 pp.457-566
「黎明の人・関信三-日本における保育者養成のパイオニア-」岩崎次男編著 『幼児保育制度の発展と保育者養成』玉川大学出版1995 pp.258-282
その他の著書・論文はこちらでご覧下さい。 www.nagano-kentan.ac.jp/profs/kg/tachinamisumiko.pdf
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