追悼 島村 美代子 先生

1989年3月 外山先生の講演後 教育文化会館控え室にて (前列 外山滋比古先生 後列 右から島村先生、石川、牧野支部長)
島村美代子先生の葬儀に出席して
3月23日の朝、新聞を見ていた夫が「島村美代子さんが、昨日亡くなられたようだ」と言った時、「ああ、とうとう亡くなられたのか。お幾つだったのだろう?」と、先ず思った。新聞には92歳とあり、26日、大沢野の想奏ホール沙羅での葬儀を知らせていた。
最後にお会いしてからの長い空白の時間、やがてその時の優しい笑顔が、目の前に浮かんできた。市民大学の講座から身をひかれて、しばらくした頃だったか、大泉のお宅の玄関での立ち話であったと記憶している。桜蔭会支部会へ出欠のご返事がなくて、確かめに、会員の誰方かと御一緒したと思う。 先生には、私が県立富山女子高校へ新卒で来て、初めて桜蔭会に出た昭和34年からお会いしていたと思う。その頃、支部会長は青山キヨさんで、そのあとを島村先生が継がれてから長年の間、何かとお声をかけていただいた。結婚して引っ越した家が、偶々近かったこともあって、支部会の帰りに新装なったお宅へ誘われ、住みやすく趣向を凝らした家の中を嬉しそうに案内してくださり、美味しい茶菓を御馳走になったことも忘れえぬ思い出である。
記憶にある先生はいつも、ゆったりしたワンピースに美しいアクセサリーを付けていらして優雅そのものだった。眼鏡の奥の優しい目と明るいお声の調子が、今でも目の前に、耳のあたりにデジタルリマスターの映像のように浮かび上がる。
富山女子短期大学のほか市民大学でも長年、日本文学のクラスを持たれたが、大変な人気で毎年多勢の受講生が継続して受けられた。先日、私の姉もその一人だったと知ったが「資料も教え方も素晴らしかった」と言っている。
20年以上前になるが、支部総会のときに、古来、文学に出てくる秋の七草の一つ、藤袴について、次第に希少になっていること、富山の自生地を是非保存したいものと、熱心に話され、「藤袴小考」と題する、文学史的に詳しく考察された貴重な冊子を出席者に下さった。それは今も手許にあって、学者としての先生を偲ばせる何よりの品となっている。
葬儀当日は風は冷たいながらも、春の日差しが明るかった。先生宅の近隣の人々と連れだって小型バスに乗り込んだ。田園風景がしばらく続いてから想奏ホールへ到着。色とりどりの花で飾られた祭壇の遺影は、眼鏡をはずした懐かしい笑顔のもの。おそらく80代の先生か、やや斜め下を向かれた穏やかないい写真だった。型どうり、読経、焼香、弔辞と進んだが、なかでも92歳の先生と魚津の小学校で同期の紳士が、しっかりと弔辞を読まれたのがとても印象に残った。その当時は勿論男女別学で、遠くから常に優等生で賞状をもらう美代子さんをみていたとのこと。
6人姉弟の他の方たちを看取り、最後になられた先生のため、昔、山室中学で教え子だったという浅地清氏が最後の挨拶をされて、小規模ながら感じの良い葬儀だった。御法名は常照院釋尼美泉。
心からご冥福を祈ります。
石川 美智子
島村美代子先生のご逝去を悼む
とても残念です。島村先生は一時期富山女子短期大学でご一緒させていただいたご縁もございますので、いくつも忘れられない思い出がございます。「フジバカマの自生地が実は馬場公園にあるのよ」とあるときの支部会でお聞きし、それ以来自宅の目の前が馬場公園の私はいつも「どこかで見つからないか」と心にかけておりましたが、いまだに発見できていません。もっとくわしく場所をお聞きしておけばよかった」と悔やんでいます。
富山の桜蔭会の屋台骨でいらしたのに。まだ今でも先生の柔和な笑顔とお声をはっきり覚えております。
ご冥福を心からお祈り致します。
立浪 澄子
島村美代子さんは、富山県初の女性指導主事、富山県初の女性校長などを歴任され、定年退職後は富山女子短期大学教授(国文学)として教壇にたたれました。 平成25年3月22日 92歳で亡くなられました。
謹んでご冥福をお祈りします。
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